鹿 野 山 神 野 寺
 推古天皇6年(598)聖徳太子により開山されたといい。天安元年(857)に、慈覚大師が再興したともいう。平安時代から鎌倉時代にかけては、天台の道場として栄え、永正年間(1504)には、高野山から弘範上人が来山して、真言密教の法灯を立てた。
 
 弘範上人は、真里谷城主(木更津市真里谷)真里谷信勝の協力を得て、荒廃していた神野寺を復興した。さらに、天文年間(1532〜1555)には、里見義尭が帰依し再興をはかっている。
 
 天正18年(1590)徳川家康が関東を領有すると、同年7月神野寺に朱印の禁制を与えた。それによると、軍勢などが神野寺に対して乱暴することや、放火などを厳禁している。 天正19年(1591)に家康は、寺領並びに格式十万石の大名格を寄進している。また、この年、家康は家臣である佐貫城主内藤家長に、伽藍や僧坊を造営させた。
 元和7年(1621)12月坊中から出火して、堂宇を焼失したが。その後、第7世の源瑜が、中興し新義真言宗の法灯を伝えた。
 
 また、第14世利珊も堂宇や僧坊の復興を計画し、宝永5年(1708)に再建した。この時松平勝隆は、用材を寄進して、利珊に協力した。現在の本堂は、この時建設されたものである。
 
 大正6年(1917)9月30日台風の襲来によって、樹齢数百年を数える杉の巨木数十株が倒れたほか、仁王門、表門その他の建造物が倒壊した。その後、数年にわたって、境内の杉などの1樹木が次々に伐採され、空をつくようにそびえていた、神野寺の杉林は見る影を失ってしまった。
 その後、第30世楠純隆が、再建や修繕に力をつくし、ようやく、昔のような神野寺の景観を取り戻した。現在は真言宗智山派に属し、境内地(13.3ヘクタール)には、仁王門・本堂・経堂・六角堂・鐘楼堂・五重塔・天満宮・奥の院・表門・宝物殿・太子講堂・道場・宿坊・庫裏などが点在している。
(寺院縁起による。)