賀来氏の起源(2016年7月改定)
大分市街の南東約五キロのところに久大本線の賀来の駅がある。現在は大分市に属し賀来町であるが、十二−十三世紀頃は大分郡賀来荘とよばれ、豊後国図田帳(建久八年、1197年)によると由原(ユズハラ)八幡宮の御神領で、領家は一条左大将(家経)室家であった。
ここが全国に散らばっている賀来(加来)氏の発祥の地である。治承三年(1179年)佐伯三郎惟家なる人物が由原領賀来荘の下司職に任命され、その子孫が惟家−惟頼−惟綱−惟永(願蓮)とこれをうけつぎ、貞応三年(1224年)惟綱が地頭職に任命され(承久の乱の恩賞と思われる)、その子惟永が相続し、これが賀来氏となったという記述が由原八幡宮文書(同宮大宮司平経妙申状案(訴状)(正応二年、1289年))にある。
現存する各家の系図では、賀来氏の始祖として「惟康」なる人物が記されているものが多い。惟康とこの文書の惟家との関係については、親子、兄弟、あるいは同一人物とする各説がある。惟康または惟家が佐伯氏の祖ともなっている系図もある。
惟康の子のうち、惟頼が豊後の賀来氏を継ぎ、惟康の弟の惟興が豊前下毛郡大畑の城主となり、以後、大畑村を加来村と称した。これが、中津市南方の加来の地名の起りで、惟興の末が豊前大畑の加来氏である、また、他の子の惟成が築城郡塩田の賀来氏の祖であるとされていた。(賀来惟達著 大神系譜より)
しかし、賀来荘の成立時期からと、惟興は、緒方惟義の弟であるとの系譜から、豊後の賀来氏と豊前の賀来氏(加来)の祖とをべつであるとして解釈した賀来秀三氏の「賀来考」が平成四年に刊行された(国会図書館蔵)(本ホームページ「賀来氏の研究」(参照)。
賀来と加来は、荘園の名称としては賀来であるが、氏名の場合は中世から混用されてきたようで、あまり区別されていない。
大分市の賀来には、賀来神社があり、賀来神社の裏手には、現在も賀来氏の館跡とされる土地があって、記念の石碑が惟達氏により建立されている。また、豊後賀来氏の菩提寺とされる圓成寺には、室町時代の賀来惟光の供養塔(五輪塔の地輪)や惟達氏建立の賀来氏歴代之墓等の石造物も残って居る。
賀来の地は、大分川とその支流の賀来川流域に位置しているが、この一帯は筑後川流域文化の影響をうけた千代丸古墳や古代の条里遺構が存在するなど早くから開発されていた。また、豊後一の宮とも呼ばれた由原八幡宮の直轄荘として栄えていた。
荘園としての賀来荘は、豊後国大分郡のうち大分川と賀来川の流域を中心としていたが、一時は大分港の南部生石一帯も含んでおり、現在の大分市大字賀来、中尾、宮苑、高崎、小野鶴、八幡、生石等にまたがっていたと思われる。
冶承元年(1177年)八月十八日の大春日立並下文に、「下 賀来御荘神官百姓等所」としるされているのが荘園としての地名の初見である。
「弘安図田帳」によると、賀来荘は本荘二百町と平丸名三十町(竹田津本五十町)とあり、本荘の領家は一条前左大将家室家(三浦本は後室)、地頭は賀来五郎惟永(法名頼連、三浦本は願蓮、平林本は顕蓮、竹田津本は顛連)とある。これは、賀来荘は十二世紀前半までは、由原宮宮司の荘務の地であったが、鳥羽院の時大宮司大神広房が勅勘を蒙り、左大臣家(時房)が領家職となったためである。
惟家が賀来の下司職に任命された頃(1179年)は、平家から源氏へと政権が動いた頃である(1180年に頼朝が伊豆に挙兵し、1185年には平家が壇の浦で滅びている)が1179年には平家が九州を支配していた。