(注)光速を超える電波の送信装置の開発に成功 米・ロスアラモス国立研究所によって光速の壁を超えて電波を送信することを可能とする装置の開発に成功していたことが6月30日、同研究所が発表した研究論文により明らかとなった。
この装置はパルサーで生じているシンクロトロン偏光(Polarization Synchrotron)の原理を応用したもので、全長は約2メートル。 安定的に光速の壁を超えて電波の送受信を行うことは困難なものの、装置間の同期を調節することによって光速の壁を超えて電波を送ることが可能だとしている。
研究グループでは、光速を超える速度で通信を行った場合、衛星経由で携帯電話を使用した場合でも遅延が生じなくなるとした上で、このシンクロトロン偏光の原理を次世代型携帯電話などに応用することを考慮している。
◎ソース:technobahn
最近ストレスによる各種の職業的疾病が話題になっているが、その予防や治癒策の一つとして、自己を取り巻く環境をそのまま受け入れることの重要性が強調されることが多い。
実際には、どのように実践すれば良いのかはそれこそ、シナプス的自己の構造の差異によって千差万別であるとともに、脳内化学物質の生成、作用などには不確定性も働くのではなかろうか。
パソコンが発達して出来ないことはないように言われるが、簡単な例では1を0で割るといくつになるかとか、循環系数や無限無理数のすべての数は、パソコンでも、だれでも、答えられない。
ヒトの意識の形成が先に述べたように、シナプス等の精密化学作用の結果であるならば、意識を持つヒトは生まれてから死ぬまでがヒトであって、その間もカオスやフラクタクルのなどの不確定性の元で変化している存在であろう。この種の研究はES細胞やIPS細胞の分化のメカニズムなどを含めてエピゼネティクス研究といわれ急速に研究が進んでいる。
ヒトである間のすべてのことは、このパラダイムのもと経過するものであるが、そのヒトの思い、行為などが大きな部分を占めることは、当然である。 自分の次元を造ってヒトのあいだを過ごし、空に帰ろう。
◎ 哲学(てつがく、古希: φιλοσοφια フィロソフィア = 愛知、愛智[1])とは、古代ギリシャから19世紀ごろにかけては)知や智の探究を意味し、学問全般を指す。
前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問の一種。
理性的な思考自体も研究対象になる。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(例、ソクラテスの哲学、など)。
◎ 宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである
◎ 芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。美術、文芸、音楽、演劇など。
とりわけ表現者側の活動として掴まれる側面が強く、その場合、表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。表現者が鑑賞者に伝えようとする内容は、信念、思想、感覚、感情など様々である。
◎ 醜いアヒルの子の定理 (ugly duckling theorem)
醜いアヒルの子を含む n匹のアヒルがいるとする.このとき,醜いアヒルの子と普通のアヒルの子の類似性は,任意の二匹の普通のアヒルの子の間の類似性と同じになるという定理.
n匹のアヒルの子を区別するために,個の二値の特徴量を使う.これらの特徴量を使ってできるルールは,各アヒルについて含む・含まないが独立にありうるが,どのアヒルも含まないルールは除外するので,全部でn個存在.
これらn個のルールのうち,醜いアヒルの子とある普通のアヒルの子のどちらも含むようなルールは n個.
一方,任意の二匹の普通のアヒルの子を同時に含むルールはやはり n個.
二匹のアヒルの類似性を,これらを共通に真にするルールの数で評価すると,醜いアヒルの子と普通のアヒルの子は,アヒルの子どうしと同じくらい類似していることになる.
これは,各特徴量を全て同等に扱っていることにより成立する定理.すなわち,クラスというものを特徴量で記述するときには,何らかの形で特徴量に重要性を考えていることになる.
この定理は,特徴選択や特徴抽出が識別やパターン認識にとって本質的であることを示唆している.
Wikepediaによると
The Ugly Duckling theorem is an argument asserting that classification is impossible without some sort of bias.
It is named for Hans Christian Andersen's famous story of "The Ugly Duckling." It gets its name because it shows that, all things being equal, an ugly duckling is just as similar to a swan as two swans are to each other, although it is only a theorem in a very informal sense.
It was proposed by Satoshi Watanabe in 1969.[1]
◎ エピジェネティクス(英語epigenetics)とは、クロマチンへの後天的な修飾により遺伝子発現が制御されることに起因する遺伝学あるいは分子生物学の研究分野である。
遺伝形質の発現はセントラルドグマ仮説で提唱されたようにDNA複製→RNA発現→タンパク質合成→形質発現の経路にしたがってDNA上の遺伝情報が伝達された結果である。言い換えると、セントラルドグマ仮説における形質の変化(遺伝子変異)とはDNA一次配列の変化であり、事実、遺伝子変異の大半はDNA配列の変化に起因することが実証されてきた。
しかしながら、DNA配列の変化を伴うことなく後天的な作用により変異が生じる機構も発見されている。近年ではヒトゲノムの解読が完了した上、形質発現の調節機構にも研究の中心が移るにつれてエピジェネティクスが注目を集めるようになった。
すなわち従来のオペロン仮説による遺伝子発現の制御はあくまでもDNA一次配列変化により変異が発生する。一方、次に示すような機序に基づく発現制御の変異はDNA一次配列変化と独立している事象である。
DNA塩基のメチル化による遺伝子発現の変化 ヒストンの化学修飾による遺伝子発現の変化 分子生物学的には、以上の述べてきたような、後天的DNA修飾による遺伝発現制御をエピジェネティクスの学問分野では扱う。
また遺伝学的に見ると、DNA複製と突然変異とによる変異は親と子との世代間の変異である。一方、エピジェネティクスの変異は同一個体内での、部位や個体の発生や分化に関する時間軸上の違いで差を生じる変異でもある。その上従来のDNA配列決定法では、個々のDNAに加えられた後天的な修飾の状況を検出することは困難であったので、エピジェネティクス的な変異が形質発現関与している寄与は過少に評価されてきたとも考えられる。
最近においてはエピジェネティクス的な機序が遺伝子発現に関与している事例も多数報告されるようになってきており、分子生物学上の一大領域を形成しつつある研究の活発な学問分野でもある。
◎ 最近の科学としてサステイナビリティ学と呼ばれる学問体系が生まれている。
サステイナビリティとは、「環境の世紀」と呼ばれる21世紀の科学技術、経済システムを語る最重要な科学の一つとされる。 国際社会が抱える喫緊の課題を解決し、地球社会を持続可能なものへと導く地球持続のためのビジョンを構築するために、 その基礎となる新しい超学的な学術が「サステイナビリティ学」(Sustainability science)である。
2 次に「宗教と哲学」であるが、ここでは、仏教という宗教とも哲学ともつかない教えの中に空間と時間を超えたアミーダという概念がある。これについて述べてみよう。
ウイクディアによると
◎ 仏教(ぶっきょう、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教のひとつ(信仰のある国の数を基準にした場合)である。仏教とは一般に、仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
◎歴史
南アジア、西アジア方面への仏教伝播 東南アジア、東アジア方面への仏教伝播約2500年前(紀元前5世紀)にインドにて発生。他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない。当時のインドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、とくに初期経典からそのような方向性を読み取れる。当時の世界的な時代背景は、都市国家がある程度の成熟をみて社会不安が増大し、従来のアニミズム的、または民族的な伝統宗教では解決できない問題が多くなった時期であろうと考えられており、医学、農業、経済などが急速に合理的な方向へと発達し始めた時期とも一致している。
紀元前5世紀頃に釈迦が現在のインド北部ガンジス川中流域で提唱した(初期仏教)。 釈迦が死亡(仏滅)して後、出家者集団(僧伽、サンガ)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。仏典はこの時には口誦によって伝承され、後に文字化される。
仏滅後100年ごろ、僧伽は教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂する(根本分裂)。時代とともに、この二派はさらに多くの部派に分裂する。この時代の仏教を部派仏教と呼ぶ。 部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)。
紀元前後、在家者と釈迦の墓(仏塔、ストゥーパ)の守護者たちの間から、出家することなく在家のままでも仏となる教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)。
7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。
8世紀よりチベットは僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入した(チベット仏教)。その後チベット人僧侶の布教によって、チベット仏教はモンゴルや南シベリアにまで拡大していった。
仏教の教えは、インドにおいては上記のごとく段階を踏んで発展したが、近隣諸国においては、それらの全体をまとめて仏説として受け取ることとなった。中国および中国経由で仏教を導入した諸国においては、教相判釈により仏の極意の所在を特定の教典に求めて所依としたり、特定の行(禅、密教など)のみを実践するという方向が指向されたのに対し、チベット仏教では初期仏教から密教にいたる様々な教えを一つの体系のもとに統合するという方向が指向された。
現在の仏教は、かつて多くの仏教国が栄えたシルクロードが単なる遺跡を残すのみとなったことに象徴するように、大部分の仏教国は滅亡し、世界三大宗教の一つでありながら仏教を主要な宗教にしている国は少ない。玄奘が訪れた時点ですでに発祥国のインドでは仏教が廃れており、東南アジアの大部分はヒンドゥー教、次いでイスラム教へと移行し、東アジアでは中国・北朝鮮は共産化によって宗教が弾圧されて衰退し、韓国は李氏朝鮮による激しい弾圧の後に現在はキリスト教に主流が移行し、仏教が主要な位置を保っているのは、わずかに日本、タイ、スリランカなどが残るのみである。近年でもタリバーンによる石窟爆破などがあった。
しかし発祥国のインドにおいては、アンベードガルにより、1927年から1934年にかけて仏教復興及び反カースト制度運動が起こり、20万あるいは50万人の民衆が仏教徒へと改宗した。また近年においてもアンベードカルの遺志を継ぐ日本人僧・佐々井秀嶺により運動が続けられており、毎年10月には大改宗式を行っているほか、ブッダガヤの大菩提寺の奪還運動や世界遺産への登録、仏教遺跡の発掘なども行われるなど、本格的な仏教復興の機運を見せている。
◎ 中国での仏教
後漢(伝来) [編集] 中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。
伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある。
また、1990年代以降、この時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。 また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する?融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。
この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の経典や禅観に関する経典を訳した。
また、桓帝の時代に洛陽に入った大月氏出身の支婁迦讖は、霊帝の時代に大乗経典の『道行般若経』『首楞厳経』『般舟三昧経』を訳した。『般舟三昧経』は光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。
三国・両晋・五胡十六国 [編集] 紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。この時代、華北のみならず、江南地方でも、支謙や康僧会によって訳経が始まり、それと同時に仏教が伝えられた。一方で、中国人の出家者が見られるのは、この時代からである。記録に残る最初の出家者は、朱士行である。また、この時代の主流は、支遁(314年 - 366年)に代表される格義仏教であった。訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護である。
紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こす。前者は後述の釈道安(314年 - 385年)の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残している。
仏図澄の弟子である釈道安が出て、経録(経典目録)を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まる。釈道安の弟子が、白蓮社を結成した廬山の慧遠(334年 - 416年)である。
南北朝 [編集] 5世紀になると、『華厳経』、『法華経』、『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞(476年 - 542年)が浄土教を開いた。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まる。
またこの時代、北朝の北魏では、太武帝の廃仏(三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統の曇曜を中心に仏教が再興され、雲崗には大規模な石窟が開削された。その後、孝文帝が洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれた。また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは『洛陽伽藍記』として今日に残されている。永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」ととなえていたと伝えられている。
一方、南朝でも仏教は盛んであったが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、梁の武帝の時代が最盛期である。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。
このような北魏及び梁の南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北においては六鎮の乱に始まる東西分裂、南では侯景の乱によるあっけない梁の滅亡によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀と、通道観の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、慧思の「立誓願文」に見られるような、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。
隋 [編集] 北周の覇業を継承した隋の文帝は、陳を併合することで、西晋以来の中国の統一を成し遂げる。が、宗教政策においては、武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなる。漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となる。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心とした。その年号をとって、仁寿舎利塔と呼ばれる。これが、日本の国分寺の起源となるものである。また、その発想は、インドのアショーカ王が各地に建てたという仏塔(ストゥーパ)に通じている(中国では阿育王塔という)。
隋の第2代皇帝である煬帝は、暴君の悪名高い天子ではあるが、その即位前、晋王時代より、天台智を崇敬したことで知られ、智より菩薩戒を受けているほか、行在所に初めて内道場を設けてより身近な場所で仏教を信仰した。
6世紀には、次々と仏教宗派が生まれた。但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであった。 菩提流支(508年 - 535年)による地論宗 真諦(499年 - 569年)による摂論宗 菩提達摩(? - 528年?)によるとされる禅宗 智(538年 - 597年)による天台宗 吉蔵(549年 - 623年)による三論宗 杜順(557年 - 640年)による華厳宗 道綽(562年 - 645年)による浄土教 これらの中で、隋唐代に教団的色彩を持つに至るのは、天台宗と禅宗である。
唐 [編集] 唐の建国当初、仏教は未だ国家の統制下にあり、造寺や度僧は制限を受けていた。更に、高祖代には、排仏主義者で元道士の太史令・傅奕による排仏案が何度も献策されていた。 紀元7世紀の最も重要な高僧は、玄奘三蔵(600年 - 664年)である。唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行した(630年 - 644年)。彼の請来した仏典は、太宗の庇護を受けて、組織的に漢訳が進められ、後世の東アジアの仏教の基盤となった。彼の弟子の慈恩大師基(632年 - 682年)は法相宗を開宗した。
この時代の各宗派の状況を順に上げれば、善導(613年 - 681年)が浄土教を大成した。禅宗は、第五祖弘忍(602年 - 674年)以後、南北二宗に分裂した。分裂当初は、長安を中心とした唐の中心部、都市部に教線を張った神秀(? - 706年、第六祖)の北宗が優勢であったが、慧能(638年 - 713年)が禅宗の諸派中、後に主流となる南宗において第六祖と呼ばれた。法蔵(643年 - 712年)が華厳宗を確立した。善無畏(637年 - 735年)金剛智(669年 - 741年)が密教を伝えた。
もう一つ、この時代の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。各宗派の僧が一緒に住むのが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。
また、唐朝を一時中断させて武周朝を建てた武則天も、妖僧薛懐義を重用し、一種の恐怖政治を行うなど問題が多いが、熱心な仏教信者であった。その武周革命には、偽作とはいえ仏教経典である『大雲経』を利用しており、日本の国分寺に通じる大雲経寺を各地に建立した。また、同姓の老子(李耳)を祖と仰ぐ唐の慣例で宮中での席次は「道先仏後」と定められていたのを「仏先道後」に改めた。さらに、自身の姿に似せたという大仏を龍門の奉先寺に造営し、その威容は今日まで伝えられている。
紀元8世紀には、不空(706年 - 774年)が密教を大成した。不空の弟子の恵果の密教は、真言密教として日本の空海に伝えられることになる。一方禅宗の方は北宗禅の神秀の下を出た荷沢神会(684年‐758年)が慧能に参じ、自らを七祖とし、慧能を禅宗六祖とする南宗禅の立場を確立した。
紀元9世紀は、黄檗希運(? - 850年頃?)、臨済義玄(? - 867年)、趙州従?(778年 - 897年)らの禅宗(南宗)が盛んであった。
また、この時代、仏教信者の多い宦官勢力に影響されて、仏教を崇敬する皇帝が多く現れた。第11代の憲宗も、そういった皇帝の一人であった。彼は、30年に一度しかいわゆる御開帳されない法門寺の仏舎利を長安に迎えて盛大な法会を執行した。韓愈は、「論仏骨表」を上奏し、その偽妄であることを直諌したが、受け入れられる筈もなく、当時は未開発であり、風土病などによって中央の人々から恐れられていた広東省に左遷されることとなった。
しかし、武宗の会昌年間(841年 - 846年)の会昌の廃仏(法難)と呼ばれる仏教弾圧事件(三武一宗の廃仏の第3回目)を契機として、仏教の勢力は急速に衰えることになった。この事件の同時代資料であり、その状況を現代に伝えるのは、日本の入唐僧円仁の入唐求法巡礼行記である。但し、弾圧自体は武宗の治世のみで取りやめられ、次の宣宗以降、仏教は復興することとなる。
廃仏より復興はするが、この時期、唐朝自体が安史の乱以降、各地の節度使勢力によって中央集権的な求心力を失っていたこともあり、往日の長安を中心に繁栄した様が再現されることはなかった。やがて、黄巣の乱を契機として、唐は一気に衰亡の一途をたどった。
◎ 日本の仏教(にほんのぶっきょう)
日本は約9600万人が支持する一大仏教国である(文化庁「宗教年鑑」)。約75000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ない
飛鳥時代 [編集] 『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。
天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。
奈良時代 [編集] 中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。
こうした「南都六宗」と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。
平安時代 [編集] その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたる。正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。だが、平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこでこうした外部からの侵入者から防衛するために僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。
鎌倉時代 [編集] 鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。これらの中には、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「(『善人→「自力作善」の者=阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んでさとりを開こうとする者』でさえ往生できるのだから、悪人→我々のような煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのはいうまでもないことだ)」という悪人正機の教えを説いた浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。
鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。
更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。
南北朝-戦国時代 [編集] 1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また、尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の明朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。このような武家と仏教界の接近は貴族文化及び武士文化に影響を及ぼし、義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。また、寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や祠堂銭(供養料)などを元手に金融業に進出するところもあった。また、当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし、高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。
曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名である。後に浄土真宗の蓮如が叡山などの妨害を乗り越えて再興し、作り上げた本願寺教団は、門徒と呼ばれる強大な信徒集団を獲得し、応仁の乱後守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵するほどにまでなった。また、一向宗とも呼ばれる(ただし、「一向宗」という言葉には浄土真宗と別宗派を指す用法もある)ように、彼らは信仰の下に団結していて、旧来の守護大名の勢力を逼迫していった。中でも、加賀国一揆等の一向一揆が有名で、数々の守護大名を圧して自治権(主に徴税権と裁判権)の拡大を行った。そのため、支配を拡げようとする戦国大名はこれらの勢力と妥協するか対立するか選択を迫られ、多くが妥協の道をとった。
諸国の一向一揆の中でも特に伊勢長島の願証寺は織田信長に頑強に抵抗し、後に織田信長から大虐殺を受け壊滅した。更に諸国の一向門徒の総本山であった石山本願寺は、さながら戦国大名家のような強固な組織となったが、顕如の時代に織田信長と対立、「石山合戦」と呼ばれる前後10年(途中の休戦を挟む)に及ぶ泥沼の戦争を経て、石山から退去した。また、一向門徒の勢力が強かった三河でも、若き日の徳川家康が弾圧を行い、家中が二分する争乱となっている。また、織田信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と宗論(安土宗論)させ、浄土宗に軍配を上げた話も有名である。この宗論は日蓮宗が他宗と対立することを抑えようとして、浄土宗に有利な裁定を下したとされている。
安土桃山時代 [編集] 豊臣秀吉は石山本願寺跡に大坂城を建てたが、彼は基本的に寺院勢力との仲を良好にしようとした。中でも戦乱による寺院の被害が多い一方で僧兵の影響力が大きかった大和には弟豊臣秀長を派遣し、円満にまとめ上げた。また、刀狩は農民のみならず寺院をも対象とし、寺院の武装解除に一定の役割を果たした。寺院の統制と武装解除は続く江戸幕府でも大きな問題として引き継がれていく。
江戸時代 [編集] 豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。また、人々には必ずいずれかの寺院に登録させるようにした(寺請制度)。そのため、今日に至る葬儀を取り仕切る主宰教としての地位を確立した。1654年に来日した明の隠元は黄檗宗を布教する。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗に対しては、お家争いにつけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させることもした。
◎ 仏教の存在論 [編集]
「無常」、「無我」、「五蘊」、「名色」、「業」、「縁起」
仏教そのものが存在を説明するものとなっている。仏教は無我論および無常論であるので、すべての生命について魂や神といった本体、または変化しない実体を一切認めない。衆生(生命・生きとし生けるもの)と生命でない物質との境は、ある存在が識(認識する働き)を持つか否かで区別される。また物質にも不変の実体を認めず、物理現象も無常、すなわち変化の連続であるとの認識に立つ。物質にも精神にも普遍の実体および本体がないことについて、「行為はあるが行為者はいない」などと説明されている。
人間存在の構成要素を五蘊を分ける。これは物理作用と4種類の心理機能のことで、物理と精神との二つで名色とも言う。仏教はこのうち名(精神機能)を重視しており、無常論および業論に基づく精神存在の連続性(縁起および因果論)を認め輪廻転生を説く。他の宗教が普遍的な魂があることによって生まれ変わると説明するのに対し、仏教の輪廻思想は無常・無我・に基づく論理の異なるものである。
無常、苦、無我 [編集] 詳細は「無常」、「苦 (仏教)」、「無我」をそれぞれ参照
仏教の教えの特徴として、三法印(3つの根本思想)がある。(三法印に一切皆苦を付加し、四法印とする経典もある)
諸行無常 - 一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある 諸法無我 - 一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない 涅槃寂静 - 苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である 一切皆苦 - 一切の形成されたものは、苦しみである
縁起 [編集]
以下にその関係を整理された十二支縁起を示す。 無明(無知) 行(潜在的形成力) 識(識別作用) 名色(心身) 六入(六感覚器官) 触(接触) 受(感受作用) 愛(渇愛) 取(執着) 有(存在) 生(出生) 老死(老いと死)
これはなぜ「生老病死」という苦のもとで生きているのかの由来を示すと同時に、「無明」という条件を破壊する事により「生老病死」がなくなるという涅槃に至る縁起を示している。
◎ 空とは何か [編集]
「空」の概念は非常に難解であるが故に、しばしば「虚無(無)」と混同されがちである。しかし本来は全く異なる概念であり、むしろこの虚無も「空」によって成立する物事の一部である。般若心経の一節「色即是空 空即是色」は、「すべての物事(色)は空によって成立しており、空こそがすなわち物事(色)である」というような意味であるが、この一節こそが空をもっとも的確に表現している。 例えば、そこらの草木を建材として庵を結ぶ場合、庵が出来上がれば庵という現象が成立していることになる。しかし、庵を分解して草木にしてしまえば、庵という現象は成立していないことになる。つまり、庵は「存在している」とも言えるし、「存在していない」とも言える。これこそが竜樹の解釈による「空」の概念である。この世のすべての物事(色)は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成している。つまりこの因縁の関係性こそが「空」なのである。
◎ 般若経の空 [編集] 『般若経』が説かれて初めて大乗仏教の根幹をなす教えが完成した。その中で、空が繰り返し主張されている。その原因の一つは、この経典を編纂した教団が批判の対象とした説一切有部の教えが、存在を現に存在するものとして固定化して観ずる事に対して、厳しい否定を表し、一切の固定を排除し尽くすための事であろうと考えられる。『般若経』の空は、このように全ての固定的観念を否定する事を主目的としている。
『大品般若経』では「空」を「諸法は幻の如く、焔(陽炎)の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、ノ闥婆城[1]の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化(変化)の如し」と十喩を列挙して説明している。 さらに空を分類して、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空の十八空(経典によっては二十空)を挙げ詳説している。
龍樹の空観 [編集]
この空の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。 龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている事を論証している。この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている事を明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。
さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない事を明かしている(最高の仏である如来は「自性輪身」(三輪身の一つ)と呼ばれ、自性であるとされている)。これによって、縁起によって全ての存在は無自性であり、それによって空であると論証しているのである。龍樹の空はこれから「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、これら関連性は現象面を人間がどのように認識するかとは無関係のものである。これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するという事だけではなく、人間独自の概念化や言語を使用する事が考えられる。龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
『大品般若経』の中に以上の内容が含まれているため、龍樹自身がこの経典編纂に携わっていたのではないかという説もある。
この説が中国などでは、直接認識した世界と、言語によって概念的に認識した世界を、それぞれ真諦と俗諦という2つの真理があるとする。言葉では表現出来ない釈迦のさとりは真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。
さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。
類似の発想の西洋での芽生え [編集]
仏教に遅れること千数百年以上になるが、20世紀に入り現れたソシュールの言語学に現れた記号の捉え方が、仏教の「無自性空」にいくらか類似すると指摘する者もいる。ソシュールは、記号の意味が差異の関係性(=構造)のみによって成り立つとし、これを「虚定的」と呼び、この発想は評論家たちの考え方にそれなりの影響を与えた。
妙覚 [編集]
空の概念よりも根本的な思想にして、インドの釈尊が菩提樹の下で悟ったとされる境地。
◎ 阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、梵名は、「アミターバ」(?????? [amitaabha])、あるいは「アミターユス」 (????????? [amitaayus])といい、それを「阿弥陀」と音写する。大乗仏教の如来の一つ。西方にある極楽という仏国土を持つ(極楽浄土)。阿弥陀仏・弥陀仏ともいう。
また、梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して無量寿仏・無量光仏ともいう。空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。
三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種字)はキリーク(hriiH)。
◎ 浄土三部経 [編集] 『無量寿経』と『阿弥陀経』の成立時期については、無量寿経の成立時期と編纂者を参照。 『佛説観無量寿経』については、サンスクリット原典が2010年現在発見されていない。中央アジアで作成されたと考えられる。しかし、浄土教諸派では、その内容が仏陀の説く教え「仏教」であり、道教・儒教・バラモン教などの影響を強くうけた「偽経」と見做さない。
『佛説無量寿経』 一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名告リ修行をし、、衆生救済のための五劫思惟[1]し 、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。
特に浄土教諸宗において、「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。 『佛説阿弥陀経』 「極楽」のありさまと、阿弥陀仏の徳が説かれる。東方・西方・南方・北方・下方・上方世界のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されていると説かれる。そして「極楽」に生まれる方法[2]が説かれる。
◎ 浄土真宗 [編集] 浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力[3]にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、観無量寿経の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。
末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力[4])では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力[5]」によってのみ救済されるとする。
釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。
個人としてのヒトの現世(四次元世界)における救いは、阿弥陀の本願を信じる(認識し納得する)ことにあり、空に往生したとき(ヒトとしては死んだとき)は、哲学的な「色則是空 空則是色」ではなく、真実の空に帰りまた、量子として分子として、多数の色に戻る、子孫の居るヒトは、その子孫が色の多くを占めるというのが、私の「空のパラダイム」の結語である。(釈利空記す)
◎ 芸術の問題は、美とは、感性との相関であり、時代とともにうつろうものである。これは、脳科学的には、A10神経という唯一フイードバックのない快感を感ずる神経が関係している(創造性も同様)と思うので、科学の思考と同様であろう。(釈利空記す)
◎ 以下の文章をブログの中で見つけました。この解説が、私の「空のパラダイム」感覚に近いとおもいました、ご参考まで(釈利空記す)
親鸞は『唯信鈔文意』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」と書いています。仏性が満ちているこの世界では、草木も成仏するはずだ、ということです。
また、空海はわが国で最初に草木成仏説を唱えた人物ですが、『吽字義』のなかで、「草木也成。何況有情」として、はっきりと草木でも成仏する、と名言しました。草木ですら成仏するのだから、心のある生きものが成仏しないわけはない、というわけです。
ほかにも、最澄は「木石仏性」といい、非情にも仏性があることを強調しましたし、道元は草木や瓦礫を含めたこの世界一切をまるごと仏性の表れと表現しています。
ただ、ここで仏教の伝統的な教学を確認しておいたほうがいいのではないか、と思います。というのは、一応正統とみなされる教学では、「仏性があること」と「成仏すること」は峻別して考えられていて、草木成仏は、いわばこのセオリーを無視ないし超越して、仏性をイコール成仏としてみなす見解にたっているからです。
少し説明します。 初めて「仏性」という言葉を使ったのは大乗の涅槃経で、「一切衆生 悉有仏性」という言葉はよく知られています。ここにおいて仏教の歴史上はじめて、すべての衆生には仏性がある、とうたわれたわけです。
しかし、この言葉にも制約があるのです。ひとつは、「衆生」というものの中身が、もっぱら「(心があると当時思われた)動物や昆虫のたぐい」だけであって、植物はもちろん、無機物は想定されていないことです。これは考えてみればあたり前のことで、仏性というもの自体が、人々を仏道修行へと誘引する目的で説かれたのですから、涅槃経では「修行しないと仏性は見えない」だとか、「悟りを求める気持ちがないと仏性が見えない」という立場をとっているのです。当然、仏性は心を持っている動物について限定的に語られることになるわけです。
意外と知られていませんが、涅槃経の終わり近くでは、「一切衆生即仏性」とも説かれます。「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は仏を見る。この仏とは仏性である。なぜなら、仏たちは仏性を本性としているからだ」(獅子吼菩薩品)とあって、仏性とは実は法のことで、法というのはすなわち縁起の理法のことである。とすれば、縁起の表れに他ならない存在である衆生は、実はそのまま仏性なのだ、と論が進められるわけです。
ただ、「衆生がそのまま仏性である」といっても、先に書いたように涅槃経の目的は衆生を仏道にいざなうことですから、その仏性はやはり八正道や六波羅蜜といった行をおこなわないと実感されない、という立場が強調されていました。つまり、仏性はあくまでも修行の結果として確認されることにすぎないし、仏性と成仏もあくまでも切り離して考えられていたわけです。
しかし、観念的な純粋化というのは思考のひとつの常であって、仏性は衆生だけについて説かれるのでなく、やがて、縁起そのものの表れである現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である、と観念されるようになっていきます。草木も山も川も石ころも、すべて仏性であるというわけです。
最澄(草木の仏性は力説したものの、その成仏は語っていない)や道元(世界はそのまま仏性だとしながらも草木の成仏までは書いていない)は、あくまで修行者のひとりとして、このような世界観を表現したと言えるでしょう。
詳説はしませんが、やがてさらに、仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である、と無条件に肯定されるようになり、この世界の存在はすべてそのままで円満具足した仏である、世界は本来過不足なく悟りのなかにある、という感覚を生みます。これが草木成仏思想の背景です。
こうやって眺めてみると、草木も成仏するという見解は、突き放して言えば認知上の観念的逸脱である、という言い方もできるかもしれません。「本来さとっている」という思想では、修行の価値を位置づけることがむずかしくなりますから、いきおい抽象的な言説に終始しがちで、そのあたりの主観性がわかりにくさと裏腹になっているのでしょう。 (逆に、現代のわが国で「草木成仏」がそれほど反発をまねかずに一定程度受け入れられるのは、曖昧な言説のままホンワカとした自然観に包まれてしまっているから、なのですが)
ただもちろん、主観的であることは必ずしも否定されるべきことではありません。宗教は結局、個々人がどのように目の前の世界を認識するか、という問題に帰着するのだから、です。(釈 利 空 しるす)